しめたん日記

他人の日記を見て楽しめる人向け

蝶を手の檻から逃がしてあげた記憶

子供のころ(4、5歳)、記憶はいつまで持続するんだろう?いつかお母さんお父さんのことも忘れちゃうのかな?全部忘れちゃうのかな?とふと思った。

そんなことを考えていたある日、当時住んでたアパートの砂場ですごく小さな蝶(たしか薄紫色)を捕まえたら母親から「可哀想だから放してあげな」と言われ逃がしてあげたことがある。

そこでなぜか思い立って、この日の記憶を一生覚えていようと一人でに誓った。

その記憶を忘れないように何回も反芻しているから、今も覚えている。

本当にうっすら淡くだけれど、映像も少しだけ頭に浮かぶ。

誰も覚えててくれない、誰も思い出してくれない記憶って無数にあるんだろうね。

雪国に生まれて

Twitterでも何度もつぶやいている通り、私は雪国の出である。

川端康成の『雪国』の舞台にもなった、正真正銘の雪国だ。

ところで、雪国の出だなんてちょっと大人っぽい言葉を使ったが、

何を隠そう私は雪国から一歩も出たことがない。

雪国生まれ雪国育ちだ(まいたけ)。

 

雪と言ったらどんなイメージを持つだろうか。

「綺麗」「神秘的」「生活が大変そう」などなど

そう。実際、雪国での生活はものすごく大変である。

朝早くに町内の除雪を行って回る除雪車が通り、そのあと自分たちでもスコップ等で除雪をする。車にも雪が積もっているのでそれも落とす。車があったまるまで時間がかかる。

道路には消雪パイプと言った、水が出て雪を溶かしてくれるパイプが寝っ転がってるのだが、これが学生には地獄で、靴の中に雪を溶かした水(雪解け水。違うだろ!)が入ってきて、靴下も靴も足もびしょびしょになる。この時足は真っ赤になり、皮膚の感覚がほとんどない。ここまでくると最早どうでもよくなってくるし、自分が今暑いのか寒いのかわからなくなってくる。

雪国はつらいぜ自慢なげーしうぜーなとお思いだろうが、もう少しだけ付き合ってほしい。

雪国の苦労は通勤・通学にも及ぶ。線路に積み重なる雪により、電車は遅延しまくり通勤路は渋滞しまくり。

し・か・し!!

結構な数の会社や高校が、雪による遅刻を認めないこともある

 

ほかにもいろいろあるんだけど、まぁその、これだけでも雪国から出ていきたくなるよねふつーに考えて。

でもそれでも出ていかないのにはいくつか理由があるので、それはまた近いうちに書きます。

 

 

 

 

子供のころ疑問に思ってたことは大人になっても変わらない

成人式に行ってきた

 

着物を着ているときは立つより座ってる方がつらいとか、

高校時代の同級生と目が合って咄嗟にそらしたとか、

三年ぶりに再開した元陰キャ演劇部インドアの友人が物凄く綺麗になってて

しかもアメリカ留学してたと聞いてたまげたとか色々あったんだけど

そんなことは今は置いておいて。

 

小学生のころから式典に参加するたびに思っていた、

「来賓紹介は要るのか?要るとしたら何が目的なのか?来賓紹介で幸せになる人間はいるのだろうか?」という問い。

ついに二十歳になっても分からなかった。

そして成人式でも、同じ問いを感じてしまった。

もしかしたら一生分からないかもしれない。

 

ところで、久っっっっ々に見た機関車トーマスのナレーターが変わってて地味に、物凄くショックだった。森本レオさんの脳に直接囁きかけるようなまるで変態のよう(良い意味で)なあの声が好きだった。

あのナレーションが機関車トーマスの世界観を構築していたといっても過言ではない。

懐古厨は古巣へ帰るとしよう。

森本レオさんの変態ボイスが好きな変態同志は、ぜひ今の機関車トーマスを見てほしい。

 

なぜか最終的に機関車トーマスの告知をしてしまった。

まぁいいや。

少女時代(アイドルじゃない)

子供というのは、人間ではないと思う。

人間と天使の境目。

それが子供。

今ではこんなダメ人間に堕落した私も、子供のころは例にもれず天使と人間のハーフだった。

 

よく子供嫌いの人が、子供は知能が低いから嫌いと言う。

私はそう思えない。思わないんじゃなくて思えない。

子供は大人よりも哲学をしているし、大人よりずっと宇宙を見つめている。

子供は大人よりずっと、ずぅーーーーーーーと賢い。

子供が知能が低く見えるのは、子供の知能が高すぎて大人には理解できないからだ。

だって私がそうだったから。

 

子供のころ理解できなかったことその1

・時間 

 

子供のころというのは、暦の感覚が備わってない。

12月ごろ母がもうすぐ新年だねーと言ったのに対し、

「なんで新年ってわかるの?町内ごとに新年が始まりまーす!って知らせる係の人がいて、うちの町内にも知らせてくれるの?」

「一月が新年って、だれが決めたの?」

と、母を質問攻めにしたのを鮮明に覚えている。

誰が決めたのかはいまだにワカラナイ(教えてエロい人)

 

まぁ当然、こんな質問に対し答えをくれる大人はいないし、まともに取り合ってくれる大人もいなかった。

だから自分で考えた。

考えた結果、時間は人間が社会生活を営むだめの後付けで、時間という概念は存在しても物質は存在しないという答えにたどり着いた。

 

ここまでの記事を読んで、つまんねーなと思ったそこのあなた、正解である。

こんなことは大人にとっては当たり前だし、今さら語るまでもないことだ。

でも子供のころにこんな哲学をしていたのは私だけだったし、当時友達にこれを言っても誰とも共有できた試しがなかった。

だから人とつながったり自分の意見をひけらかすことができるツールを持った今、書いてみただけなのです。

もしかしたら読んでくださった方の中には、子供時代に同じことを考えていた人がいるかもしれない。もしそうだったらすごく嬉しい。

推敲してねーし人に見せるための文章じゃないし子供のころのモヤモヤを吐き出すためだけのブログだしつまんねーしほんとすまん。ここまで読んでくれてありがと。

つづく